才能とは、人生の欠陥を埋めるために生まれる

才能という言葉を聞くと、

絵がうまい。
頭がいい。
足が速い。
話がうまい。
仕事ができる。

そんな「他人より優れている能力」を思い浮かべることが多い。

もちろん、それも才能だと思う。

でも、才能をそれだけで考えてしまうと、
ずいぶん多くの才能を見落としてしまう気がする。

私は最近、

才能とは、人生の欠陥を埋め合わせるために自然発生する現象なのではないか

と考えている。

人には、それぞれ欠けているものがある。

うまく話せない。

人付き合いが苦手。

人一倍傷つきやすい。

普通のやり方ではうまくいかない。

なぜか周囲になじめない。

そんな「生きにくさ」があると、
人はなんとか生きていくために、
別の方法を探し始める。

話すのが苦手だった人が、
文章を書くようになる。

人の輪に入るのが苦手だった人が、
誰よりも人を観察するようになる。

傷つきやすい人が、
他人の小さな痛みに気づくようになる。

忘れっぽい人が、
誰よりも記録や仕組みをつくるようになる。

普通の道を歩けなかった人が、
誰も歩いていない道を見つける。

最初から「才能を伸ばそう」と思ったわけではない。

そうしなければ、うまく生きられなかった。

その結果として、
何年も経ったあとに、
周囲から「才能」と呼ばれるものになっていた。

だとすれば、

欠陥と才能は、
必ずしも反対側にあるものではない。

むしろ、

欠陥のすぐ裏側に、才能が育っていることがある。

だから、自分の欠点をすべて直して
「普通の人」になろうとすることが、
いつでも正解とは限らない。

もちろん、他人を傷つける欠点や、
生活を壊してしまう問題なら改善した方がいい。

でも、

「なぜ自分は普通にできないんだろう」

と思ったときには、

もう一つ問いを持っていてもいい。

「その代わりに、自分は何を身につけてきたんだろう」

そこに才能の入口があるかもしれない。

そして、才能にはもう一つ、
まったく違う発生の仕方があると思う。

それは、

「好き」という現象だ。

なぜ好きなのか、
本人にも説明できない。

誰にも頼まれていないのにやってしまう。

お金にならなくても続けてしまう。

時間を忘れる。

調べてしまう。

集めてしまう。

つくってしまう。

人に止められても、
しばらくするとまた戻ってしまう。

考えてみれば、
これは不思議な現象だ。

人間には無数の選択肢があるのに、

なぜか一つのことだけに、
何百時間、何千時間という人生を使える。

だから私は、

「好き」は一種の超自然現象だと思っている。

上手だから好きなのではない。

役に立つから好きなのでもない。

儲かるから好きなのでもない。

理由より先に、
心がそちらへ向かってしまう。

そして、その「好き」に長い時間を使った結果、
ある日それが能力になっている。

だから才能には、

少なくとも二つの入口があるのかもしれない。

「足りなかったから、身についたもの」

そして、

「好きだったから、続いてしまったもの」

面白いのは、
どちらも最初から「他人に勝つため」に
生まれたものではないことだ。

ところが私たちは、
才能をすぐ比較してしまう。

誰より絵がうまい。

誰より数字を取れる。

誰より速い。

誰より知識がある。

そして順位がついた瞬間に、

一番の人には才能があり、
そうでない人には才能がないように感じてしまう。

でも、本当にそうだろうか。

才能とは本来、

他人に対して優位性を証明するためだけのものではない。

人より優れているかどうかではなく、

その人が生きていく中で、
なぜか身につけてしまったもの。

あるいは、

理由もなく惹かれ、
どうしても続けてしまうもの。

そこにも才能はある。

だから子どもを見るときも、
社員を見るときも、
自分自身を見るときも、

「何が得意なのか」だけでは、
少し足りないのだと思う。

何が苦手なのか。

その苦手を補うために、何を身につけたのか。

誰にも言われないのに、何を続けているのか。

何をしているときだけ、時間を忘れるのか。

そこまで見てみる。

才能は、
目立つ場所にあるとは限らない。

もしかすると、本人が欠点だと思っている場所の裏側や、
誰にも評価されていない「好き」の中で、
静かに育っているのかもしれない。

才能という、自分だけの財産

そして、「才能」という言葉そのものも面白い。

英語では、才能を talent という。

この言葉をずっと遡っていくと、もともとは古代の重量や貨幣の単位として使われていた言葉に行き着く。

それが、主人から財産を預けられた僕(しもべ)たちを描く聖書の「タラントのたとえ」を経て、やがて「人に与えられた能力」という意味を持つようになった。

つまり、その言葉の歴史には、

「価値あるもの」
「託されたもの」

というイメージが重なっている。

そう考えると、
才能というものの見え方が少し変わってくる。

才能は、誰かに勝つための勲章ではない。

人生を生きていくために、自分に託された財産なのだ。

お金は使えば減る。

物は壊れる。

肩書も、立場も、
いつか失うかもしれない。

けれど、

長い時間をかけて身につけた観察力。

人の気持ちを感じ取る力。

文章を書く力。

人を笑わせる力。

ものをつくる力。

人と人をつなぐ力。

誰も気づかないことに気づく力。

困難な状況でも、
もう一度立ち上がる力。

そういうものは、
一度自分の中に根を張れば、
人生のいろいろな場所で何度でも使うことができる。

職業が変わってもいい。

会社が変わってもいい。

時代が変わってもいい。

使い方を変えながら、
生涯、自分と一緒に持っていける。

そう考えると才能とは、

生涯にわたって活用できる、自分だけの財産であり、いざというときに使える、人生における「決戦兵器」なのかもしれない。

しかも、その決戦兵器は、
最初から格好いい姿をしているとは限らない。

人とうまく話せなかったから、
人のことをよく見るようになった。

傷つきやすかったから、
小さな変化に気づけるようになった。

普通のやり方ができなかったから、
自分なりのやり方を考え続けた。

誰にも理解されなかったけれど、
なぜか好きで、ずっと続けてきた。

人生の中で「欠点」だと思っていたものが、
長い時間を経て、
自分を助ける武器に変わることがある。

だから、

欠陥を、ただ直そうとしなくてもいい。

その欠陥によって、
自分の中に何が育ったのかを見てみる。

そして、

「好き」を、ただの趣味だと思って捨てなくてもいい。

なぜ自分だけが、
こんなにもそれを好きなのかを考えてみる。

そこにはまだ、
本人さえ気づいていない財産が
眠っているかもしれない。

才能は「生きてきた痕跡」

才能を探すというのは、

「人より優れているもの」を探すことではなく、

その人が、その人として生きてきた痕跡を探すことなのだと思う。

欠けていたから、生まれたもの。

好きだから、続いてしまったもの。

必要だったから、身についたもの。

生きてきたから、残ったもの。

それらが長い時間をかけて、
その人にしか持てない財産になっていく。

だから、

欠陥は、ときに才能の入口になる。

そして、

「好き」は、まだ名前のついていない才能かもしれない。

才能は、
自分の人生を生きるために、
長い時間をかけて自分の中に形成されてきたもの。

そして人生のどこかで、

本当に守りたいものや、
成し遂げたいものや、
助けたい誰かに出会ったとき、

それまで何のために持っていたのか分からなかった才能が、
突然、意味を持つことがある。

そのとき初めて、

「ああ、このために自分はこれを持っていたのか」

と思うのかもしれない。

才能とは、
人生から与えられた勲章ではない。

人生を生き抜き、誰かを助け、何かを成し遂げるために、自分だけが持っている決戦兵器なのだ。

才能を持っていることと、
才能を何に使うかは別の話だ。

だから最後に残る問いは、

「自分には、どんな才能があるか」ではない。

「自分に託されたこの財産を、いつ、どこで、誰のために使うのか」

なのだと思う。

書いた人

佐藤勝美 事業設計・プロデュース

kastumi sato

豊富な知識で、想いを確かな「事業」へと着地させます。
美味しいものを飲んだり食べたりするのが好き。
飲み食いが好きすぎて飲み屋のような自宅を作りました。
美味しいものをいただきながら未来のお話を固めていきましょう。


私たちは、真剣に「遊ぶように」働きます。

その理由は、心から楽しまなければ、お客様を本気で幸せにすることはできないからです。

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