「推し」それは「自分を差し出せる他人」がいる幸せなのか?

カンノ

音声と文字で解説するので、お好みの方でどうぞ!!
>>音声はこちらからstand.fmにリンクします)

こんにちは!代表マネージャーのかんのです。
今回ご紹介する本は、『推し、燃ゆ』です。

カンノ

第164回、5年前の芥川賞受賞作ですね。
お恥ずかしながら、読んだことがありませんでした。

推し活、とは危ういものなのか?

推し活、と聞くとどんなイメージでしょうか?
大金をつぎ込んで、生活が困窮している、メンタルが病んでいる、依存している・・・・
私は、失礼ながらも、「推し活」に対して、そんなイメージが少なからずあったのだと思います。
なにせ、「推し、燃ゆ」というタイトルが気になりながら何年も手に取れなかったのです。

私自身がオタクなので、「タイトルが気恥ずかしくて手に取れなかった」
そんな理由もあったのかもしれません。

ですが、読み終えた今、
私は、この作品を読んで、「危うさ」というよりも、やはり「好き」は人を救うのだと感じています。

主人公のあかりは、社会の中でうまく生きることができず、周囲との関係にもどこかズレを抱えています。
そんな中で、「推し」を応援することだけが、自分を保つ手段になっていました。
その姿は一見すると危うく見えますが、私はそれを「依存」ではなく、「生きるための装置」のようなものだと思いました。

あかりの「推し」へのスタンスは、「推しを解釈すること」、そして「推しの見る世界を見ること」です。
それは一般的な恋愛とは異なり、相手との関係を求めるものではありません。
交流も求めていないし、恋愛関係になることも望んでいません。
その在り方は、あまりにも冷静で、一方通行です。

こんな文章が本文にあります。

携帯やテレビ画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う。
相手と話して距離が近づくこともない、あたしが何かをすることで関係性が壊れることもない、
一定のへだたりのある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えくれることがあるように思う。
推しを押すとき、あたしというすべてをかけてのめり込むとき、一方的ではあるけれどあたしはいつになく満ち足りている。

#推し、燃ゆ 本文より

あかりは、一方通行の愛情に安心すら覚えている。
ただ、解釈したい。それだけなのです。

この姿勢はとても印象的でした。
人を好きになるということは、必ずしも「関係を持つこと」ではなく、「理解しようとし続けること」そのものが目的になる場合もあるのだと気づかされました。

また、あかりにとって「推し」との関係は、近づくことを前提としたものではありません。
本文にある「そのへだたりぶんの優しさがあると思う」という言葉が象徴しているように、
距離があるからこそ壊れない関係があり、その距離自体が安らぎになっているのだと感じました。

人は近づけば近づくほど、関係が壊れる可能性も抱えてしまいます。
しかし、一定の距離があることで、その危うさから守られたまま、相手の存在を感じ続けることができる。
その中であかりは、「一方的ではあるけれど満ち足りている」と感じているのです。

確かに、「好き」によって自分を保つことは、同時にその対象を失ったときに大きく揺らぐ危うさも持っています。
しかし、それでもなお、「好き」がなければ立っていられない瞬間があることも事実です。
だから私は、この作品を通して、「好き」は人を縛るものでもあるけれど、それ以上に人を救う力を持っているのだと感じました。

そしてラストの場面で、あかりは、自分が散らかした綿棒を一つひとつ拾い始めます。

からすが鳴いていた。しばらく、部屋全体を眺めていた。
縁側から、窓から、差し込む光は部屋全体を明るく照らし出す。中心ではなく全体が、あたしの生きてきた結果だと思った。
骨も肉も、すべてがあたしだった。あたしはそれを投げつける直前のことを思う。

出しっぱなしのコップ、汁が入ったままのどんぶり、リモコン。視線をざっと動かして結局、後始末が楽な、綿棒のケースを選んだ。

気泡のようにわらいが込み上げてきて、ぷつんと消えた。

綿棒をひろった。

膝をつき、頭を垂れて、お骨をひろうみたいに丁寧に、自分が床に散らした綿棒をひろった。
綿棒をひろい終えても白く黴(かび)の生えたおにぎりをひろう必要があったし、空のコーラのペットボトルをひろう必要があった。
遠いところに長い道のりが見える。 手は重かった。綿棒をひろった。
「一足先は向いてなかったみたいだし、当分はこれで生きようと思った。綿棒をひろった。」

これはあたしの生きる姿勢だと思う。

#推し、燃ゆ 本文より

自分の人生を自分で回収する、ということ

最後の文章、とても文学的で美しいのです。
主人公の「それでも生きねばならない」という覚悟が定まっている、
この小説の、全ての流れが最後の文章に集約されている、そう感じました。


この物語は、何かが劇的に変わるわけではありません。
ただ、自分の出した結果を、自分で拾い直していく。
その姿を見て、私はこれが彼女の「生きる姿勢」なのだと思いました。

生きるとは、特別な何かを成し遂げることではなく、
自分の散らかしたものを拾い続けることなのかもしれません。

「好き」は救いにもなり、同時に拘束にもなる。
その両方を引き受けながら生きることが、現代を生きる私たちの課題なのだと思いました。

私たちは、真剣に「遊ぶように」働きます。

その理由は、心から楽しまなければ、お客様を本気で幸せにすることはできないからです。

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